東北報徳実践会は、令和3年10月に、全国の報徳関係団体との連携構築を目的とし、任意団体として福島市に活動拠点を置き、具体的な活動の準備を再開しました。
全国及び東北地方における報徳活動の団体の支援を目的に、主に旧相馬中村藩領内以外の地域での活動を行うこととしています。
具体的には、
①映画「二宮金次郎」の上映会の再開
②報徳仕法の実践
③報徳思想の正しい学びの場の提供
④全国の報徳関係団体との交流
を目的としています。
天明7年(1787)~安政3年(1856)
金次郎。相模(神奈川県小田原市)の人。独特の思想により農村建て直しに尽力した農政家・思想家でその教えに基づく農村復興策は、「興国安民法」(御仕法・報徳仕法)などと呼ばれました。
通称久助、弘道。
中村藩士の子として生れた高慶は、江戸修学中の天保10年(1839年)、荒廃した領内を復興するため尊徳の下に入門しました。やがて門人の筆頭となり、終生、尊徳に仕え、尊徳に代って中村藩の事業(御仕法)の指導しました。
また、尊徳の教えを世に広めるため「報徳記」や「報徳論」を著しました。
通称久米之助。
晩年の一時期大原村(原町市)に隠遁し大原山人といいました。富田高慶の甥にあたり二宮四大門人の一人として御仕法の後半を高慶に代って指導しました。
成田村代官助役。御仕法掛。
御仕法は、さまざまな基礎調査を行い、村の状況、村民の生活の様子を明らかにし、分度を定め(村の過去何年かの税額平均値から生活の限度を定め)、弘化2年(1845年)12月に城下に近い成田村(1日)、坪田村(4日)で始まり(発業し)ました。
成田村では、代官助役高野丹吾宅に村人一同が集まり、郡代野坂源太夫と宇多郷代官志賀乾が御仕法の趣意を説明し、富田高慶が御仕法発業の経過と内容を説明しました。そして、第一の作業である村内善行者表彰の入札(投票)を行いました。
発業後は、農民の労働意欲を高めて生産力をあげ、和の精神を尊重して連帯感を高めるためにいろいろな作業(事業)が継続して行われ、早い村は数年で復旧しました。復旧ができた村を「仕上げ村」といい、農民の借金を返させ、日課縄ないの積立金を倍額にして返し、新たに凶作時の備えをして、仕法を別の村に移していきました。
こうして御仕法は、弘化2年から明治4年(1872年)の廃止までの27年間、藩領内226カ村のうち101カ村で施行し、うち55カ村は完了、46カ村は施行途中で打ち切られました。
通称専八は、和算・測量にかけては日本の最高水準に達し、尊徳のもとで実地の修練を積み、帰国の後は、民政と土木工事と著述・教育に活躍した。 その卓抜な設計と施行による大規模用水事業は、今日までも恩恵を残すものが多く、彼を祀る神社もある。 彼を彼たらしめた究極のものは、実にその母にあった。 母の繁(しげ)は、文政4年 (1822)、18歳で、藩の祐筆荒喜左衛門量重(かずしげ)に嫁いだ。 喜左衛門は、料理方から身を起こして徒士(かち)となり、日夜筆道に励んで祐筆に抜擢された人で、謹直・公正な人物だったという。 しかし、禄高は低く、荒家の生活は楽ではなかった。 繁は、機織りをして家計を補いながら、夫と62歳になる姑(しゅうとめ)に仕え、また夫の書道の弟子たちの面倒をみた。